ウイルスと発がん
第5回 細胞死の誘導とがん抑制遺伝子
東京医科歯科大学難治疾患研究所
疾患医科学研究系ウイルス感染学分野
清水則夫

前回までに述べたように、がん細胞とは決められた状態を守らずに勝手に分裂増殖する細胞です。そのような細胞ができあがる一つの理由は、細胞の分裂増殖を司っている様々な遺伝子の制御がはずれて、分裂増殖が止まらなくなってしまうことが原因となります。また、そのような細胞は極めて危険ですから、通常はアポトーシス(プログラム細胞死)のスイッチが入り、細胞は自殺するように設計されています。つまり、体の中では多くのがん細胞のもとになるような異常細胞が出現しているのですが、さまざまな機構によりそのような細胞は自殺に追い込まれているのです。つまり、がん細胞とは細胞増殖の制御がはずれて勝手に増殖してしまう細胞がまず出現し、通常は自殺に追い込まれるそのような細胞にさらに変化が加わり自殺を回避する能力を身につけた細胞なのです。そしてがん細胞が無制限に増殖することが発がんということなのです。細胞が決められたタイミングで、あるいはいうことを聞かない細胞が強制的に「自殺」することが極めて重要なことは分かっていただけたと思いますが、どのようにして細胞が自殺し、またどのようにそのような制御システムから逃れて増殖を無限に繰り返す細胞(がん細胞)ができてしまうのかを理解することが「がん」を理解するためには重要なステップとなります。がん遺伝子(細胞の分裂増殖に関与する遺伝子)の場合には通常であればスイッチがオフにならなければならないときにスイッチが入りっぱなしになってどんどん細胞が分裂増殖してしまうことが問題となりますが、細胞の自殺を促すような遺伝子はその遺伝子のスイッチがオフのままになって(あるいはその遺伝子自体が失われて)自殺すべき時に自殺できないことが問題となります。そのような遺伝子は「がん遺伝子」に対して「がん抑制遺伝子」と呼ばれ、勝手に増殖してしまう細胞ががん細胞にまで育つことを許さない働きがある遺伝子です。がんを理解するにはがん遺伝子とがん抑制遺伝子の働きを理解することが重要になります。つまり、がん細胞が成立するためには細胞の分裂増殖に関係する遺伝子のスイッチが入りっぱなしになること、クルマに例えればアクセルが踏み続けられ、そしてそのような危険な細胞を自殺に追い込むブレーキの役目をするがん抑制遺伝子がなんらかの原因で働かなくなることが必要なのです。では、がん抑制遺伝子について詳しく述べましょう。がん抑制遺伝子は神経芽細胞腫という通常はまれな小児の目に発生するがんが多発する家系の研究から明らかとなりました。このような家系の患者は両目に同時にがんに侵されることが普通で、明らかがんが親から子へ遺伝することが示されました。ヒトは両親から一つずつ遺伝子を受け継ぎ、すべての遺伝子を2つ持っています。この家系では2つあるRB遺伝子と呼ばれる遺伝子の内1つが遺伝的に欠けていることが発見されました。したがって、この家系の家族は遺伝的にRB遺伝子に予備がない状態で、大切な残り1つに異常が生じた場合、神経芽細胞腫を発症してしまうのです。このように、ある遺伝子がなくなるとがんが発生する場合もあることが分かり、がんの発生を抑制しているとの意味でがん抑制遺伝子と命名されました。このRB遺伝子からできるタンパク質は、いぼを作ることで知られるパピローマウイルスが作るウイルスタンパク質と結合するとがん抑制活性が失われることも明らかとなりました(現在では、アポトーシスを抑制することにより発がんに関与することが分かっています)。パピローマウイルスについては後で詳しく述べますが、子宮頸がんの原因ウイルスとしても重要なウイルスで、患者のがん抑制遺伝子自身は健在ですが、がん抑制遺伝子産物のタンパク質がウイルスタンパク質と結合して働きを阻害されてしまうことが子宮頸がんの発生と結びついていたのです。もう一つのがん抑制遺伝子として有名なp53はもともとSV40という動物のがんウイルスが作るウイルスタンパク質と結合する性質がある分子量5万3千の細胞のタンパク質として見つかりたため、p53(pはタンパク質の意)と呼ばれています。がん細胞ではp53遺伝子が失われていることが非常に多いこと、p53は実験的にも発がんに対して抑制的に働くことが分かり、p53もがん抑制遺伝子の1つであることがはっきりしています。また、最近の研究により、ほぼすべてにがんの発生にはp53とRB遺伝子が関与することが分かってきました。p53やRB遺伝子は細胞分裂と密接に関係する遺伝子で、細胞がいろいろな要因により(例えば紫外線や化学物質による)損傷を受けた際の修復に関係します。ヒトの身体を形作る60兆もの細胞には、毎日約100億個の細胞の遺伝子に突然変異が起こると推定されています。この膨大な突然変異をすべて修復する必要があるのですが、突然変異を修復している最中あるいは修復前の細胞が分裂増殖しては困るため、そのような細胞の分裂を停止させる必要があります。RB遺伝子にはそのような細胞の分裂を停止させて修復の時間稼ぎをする働きがありますが、さらに手に負えないような変異を受けている細胞はp53によりアポトーシスが誘導されて自殺に追い込まれることになります。したがって、p53やRB遺伝子に異常があると遺伝子に傷がついた細胞の分裂が停止しにくく、そしてアポトーシスにより死にくくなり、発がんに結びつくと考えられています。このように、がん遺伝子の働きによりアクセルが踏み続けられた細胞に対してブレーキの役割をするのがRB遺伝子、それでも手に負えない細胞を自殺に追い込むのがp53で、アクセル、ブレーキの両方の遺伝子に異常が起こった細胞ががん細胞であると総括できると思います。ただ、がん細胞が成立し、それが死に至るような病変に発展するためには転移、血管新生など他の要因も必要となるので、がん・がん抑制遺伝子がすべてではありませが、発がんの最も重要な要因と言えるでしょう。余談ですが、がん抑制遺伝子の働きを強めればがんにならないとの考えもあります。しかし、がん抑制遺伝子の働きを強めたマウスを作りだしたグループの報告では、期待通り、がんの発生は大きく減ったが、半面、マウスの平均寿命も2割近く短くなったとのことです。p53の機能が過剰になると、皮膚や骨などの組織の再生まで妨げてしまうためと考えられ、ブレーキだけ強化した車が使い物にならないのと同じなのでしょう。また同様の発想として、がん抑制遺伝子が欠失した腫瘍にがん抑制遺伝子を注入する遺伝子治療が試みられています。こわれたブレーキを直せば元通りになるだろうとの発想ですが、今後の治療結果が注目されています。

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